なまえ

娘の学校に行った時のこと。

先生:お誕生日、いつだったかな?
娘:7月7日、たなばた。
先生:そっか、七夕だったね!先生のお母さんと同じ誕生日だよ^^

「えっ?」と私は思わず、先生はにっこりうなづいて。

思えば先生のお名前は、娘の名をつけてくれた鑑定士さんの旧姓と同じ。
ちなみに夫も、おじさんの知り合いの易者さんにつけてもらったそうで、
初めて名前を知った母に「喜びに力が加わっているのね」と言われてはじめて、
「確かに」と自覚したようです。

「なまえ」といえば
以前カップルセッションで
「自分たちの関係に、名前がないことはさみしい」とおっしゃったのが印象的です。

私はセラピーを病理に対して使ってはいませんが
自身の状態に、病名や名前があると安心する、という感覚は味わっています。

名前があることによって、安心して「そのことと付き合う・向き合う」時間が得られることは大切なこと。
ただ、名前に囚われてしまっては本末転倒だと思うのです。

キラキラネームが始まって、終わりを迎えた様子。
性別、結婚、教育についての制度に対する法律も、変わってきている時代。
そのために尽力されている方々もいます。
ちなみに私は夫と、男女のちがいは、シンプルに「役割分担」としています。
どの役を誰に割り当てるかって、双方で決めればいいよね。



夫婦だけじゃなく、カップルとか、パートナーとか、いろんな言い方・呼び方がありますね。
りゅうちぇるが可愛すぎるし、ぺこちゃんもえらいなぁ。素晴らしい。素敵です。
リンクくんは2人の元を選んで、未来をつなぐ(リンクさせる)役としてきたのかも。

ちなみに私は、母が3人います。
毋も私もみな昭和生まれ、だけど
三者三様の母たちに出会えたことは、喜びでしかないと今、思います。
私もそうですが、人は見たいように見て、言いたいように言います。

ただ、そのことと「人の存在価値や尊厳」は別のもの。
自然そのものの変化に伴う、普遍性を備えた存在。
だから、どうあろうと本来、自由です。

余白は、デザインで重視しているところ。
パーソナルスペースも、大切。
近い存在にこそ許されていて、足元を見ればこぼれ落ちるほど転がってるしあわせ。
だから「しあわせ」に気づいたら、ありがとうと言えばいい。
もちろん、子どもはきっと全部、お見通し^^




もしまだ無いと思うのなら、作ればいい。に尽きるかな。
私たち人というのは、永遠の中で、有限の肉体を持つことができる、クリエイティブな存在。
選び放題の今、しあわせは、それぞれ、その時々のぶんだけある。
あなたはいらなくても、誰かの必要ってことも、あるあるある。
どんな失敗作だって、作り手の経験のためにあるしね。


これを書くのに、本当に長い時間がかかりました。
機がようやく熟すタイミングが今でした。

多くの方にとって、より快方に向かい、開放的であられますよう。
ありがとうございます。
ご縁というのは、言葉に尽くせない程に、ありがたいこと以外にない。

人には、それぞれの経験や体験が与えられ、時間や空間さえも与えられているのだと信じて
それぞれの奇跡を祈っています。

GOOD LUCK!

『私か、私以外か。』←言ってみたかった