世界は美しく調和する

節分がすぎた2月のある日、義母が入院したと義父から連絡が来ました。
夫の驚く声はいつも本人以上に私たちに響くほどの衝撃があります。たとえそれが嬉しい驚きでも。
私はキッチンにいながら、彼の仕事部屋からわずかに聞こえるその声波から、緊迫感を感じていました。

自立的な母らしく、家業の経営を維持しながらなるべく周りに影響が出ないようにと、通院で済ませるつもりだったみたい。義父との判断で入院することになった、とのことでした。

出てくるワードは先入観もあって、夫も私も脱力感におそわれました。
色々とシェアして
「どうであっても。生きてるよねお母さんは今。てことは、これから私たちにできる限りのことをしよう」
そう言って、各々のスケジュール調整と連絡を。

既にはじまっていた治療後、退院を迎えに行く日までのこと。セカンドオピニオンで病院を変えたこと。父と息子の会話や、私が話したことやその反応。私は私で、娘や犬との時間、実家の両親との様々な会話などしながら、全身の感覚がこれまでにないほど研ぎ澄まされて行くのを感じていました。

震災のあの日からもう12年が経とうとしていて、私にとってもやはり特別な時期でした。
夫は治療のことを聞いて「わかってたら止めてたのに」と言ったけど、義父母の住む町で、母の意向で決めたことだから、きっと最善。なんて、今こうして書いてるからこそ言葉になるけど、その時々は感覚的にたぶん、色々、色々言いました。時を同じくして、高齢の方と関わる人たちもまた、私と似た体験が起きていることもあって、私は都度、立ち止まりながら私であることを意識せずにはいられませんでした。

そうしているうち、私は相手と共有する集合意識内の各部位をヒーリングしていることを自覚しました。健在意識に自分を戻すと、タイミングよく連絡や報告が届くということの連続で、私は自分の集中力を信頼せずにはいられませんでした。「思い込み」とか「気のせい」として無いものとしてしまうのでなく、思い込みというすべての人が様々な形で持つ「信念」や「観念」、そして「気」という万物に備わる力がある事を認めた方が、辻褄が合うのでした。そして実の母もまた、似たような体験をしている事を思い出しました。

近所の人や友人たちのいつもと変わらない優しさや挨拶に安心できたこと、タイミングよく繋がれた仲間たちに相談できたことは、私にとって、結果夫や家族にとっても、とてもありがたいことでした。今までの私だったら、きっと自分でどうにかしなきゃ!と思ってたような。

彼は彼で。お互い時々いっぱいいっぱいにもなるけど、自分自身であることを肝に銘じよう!とか言って。
今は夫と呼ぶけど、私にとっては同志で仲間。娘にとってはパパで、犬は私にはただただ懐いてくるのに、夫には犬語で「グルグルゴワ〜ゴニョゴニョフ〜」と、何か声で伝えたい相手みたい・・・何て言ってるんだろう。

退院した母は、今までの凛とした姿から、柔らかな愛情を持ったひとりの女性というふうに見えました。まだ母のことをよくは分かってないはずだけど、彼もそうだというからきっと。
娘や私にほほえむ顔も、今まで私たちにしてきてくれた数々の愛情表現を思うと、母の母らしさが見えてきました。義父はとにかく甲斐甲斐しくサポートしていて、息子にさえ触れさせない勢い。

とにかく眠くなるの、と言って母が体を休める間、お見舞いの親戚たちから、たまたま立ち寄ったという母の幼馴染まで、代わる代わる人が来ました。いろんなことが神がかってるというか

神様は、人を通して「奇跡」というものの存在を証明している ように思いました。

そしてある時、母が夫に言ったそうです。
「私、長生きするかもよ♡」って。

私はそれを聞いて、今まで娘ともどもお世話になってきた所員さんに伝えると、涙が止まらなくなってしまいました。二人で泣きながらたくさん話をしました。

「こういう話ができることは、とても貴重です。それぞれの幸せや考え方がある中で」そう言うと「そうね。それぞれに考えがあって、わかりあうより別々の幸せに向かうっていう形もあるもんね」と返して下さった。
嬉しすぎて「幸せです。こうしていられるのは…」と言いかけて目が合うと「安心よね」と返ってきた。
私はもう、うなづきすぎて泣き疲れて、しばらく床から立ち上がれなくなりました。

母はお化粧をしたり、お洋服を選んだり、お見舞いのお返しを考えたりし始めるようになり、私に相談してくれたり、お願いしてくれたりして、私の「センスを買ってるんだと思うよ」と夫。

そして個人的に、ずっとずっと忘れられなかった3歳の頃の印象深い夢と、その記憶の果てにあるものを見つけ出すこともできました。やはり「今」だからこそ。
娘と犬がいてくれたことも、本当〜に大きかった。
それぞれが生きて存在していること、そして過去に存在していたこと、たとえ少し先でも、夢や約束を語れることなどのすべてが尊いのだと改めて思いました。

自分の話をすると時々「意外!」と驚かれることがある。
逆に私が驚くことも。伝わってなかった?って。
伝えるタイミング、捉える部分や解釈、イメージや印象、場合によって邪推も含まれてるかも知れない。
そしてそれは当然のことだとも思う。
私は私であって、相手は相手なのだから。
そしてポンコツな私が言ったつもりになってたり、聞いてなかったり、お互いうっかり忘れてたり、ただそんなことも。
きっと誰も、何も悪くなんてない。
間違いも勘違いも含めて、星々の働きや自然が、本来の形を変えて見せることくらい、あるだろうから。

今日も生きてます。
天命を全うして、天寿を迎えられたら、いいな。
なんて思いました。

改めて、私は私を生きます。
あなたは、あなたを生きてくださいますように。

お読みくださり、ありがとうございました。