新時代

しばらくは義父と夫が決めた通り、私たちの義実家を往復する生活は、少しの間お休みすることになりました。
やっぱり心配は出てくるし、色々できるんじゃないか、やれることがあるんじゃないかと気を揉める私がいて、でも実の親子と義理の親子では見方がちがうのは当然か。

正解がない上、たくさんの人たちが関わっていて、それぞれの気持ちや立場もある中、余計なお世話はしたくない、けど、元気でいてほしい。夫は、両親のやりたいようにやらせるのがいいんじゃないかと思って、と言い、それはもちろんそう、そうなんだけど、と私の中で収まり切らない思いがあった。

……思えば、こうして書き出すことによって自分の気持ちを知るようになったのは、専門学校時代に初めて卒業制作用にワープロを買った時に気づいたこと。
わが家には私が小学生の頃に初めてワープロが置かれて、初期のマッキントッシュみたいな大きな箱が、私のあそび道具でした。文字を四倍角にしたり袋文字にしたり、ドットでマークを作ったり。
そんな私がいずれMacで編集をしたりデザインしたりするのは、機能に慣れていく過程のようなもので、元々そうやって遊んでいたことが仕事になったみたいな事かと改めて思ったりします。

「私が色々言うのは、お義父さんに、お義母さんと行きたかった場所に行って欲しいと願うからなの。」
そう言葉になった時には、いつもながら泣いていました。


娘は自ら「学び」をゲーム化して私たちにプレゼンしてきたりします。犬のお散歩中や車の中でも、遊びながら「そういうことか!」と理解を深めたり発見する彼女を見て、日々の暮らしやそれぞれの必要性こそが、学びの宝庫なのではと思います。
いつ、どんな選択を彼女がするかは未知だけど、できるだけ対応できる私たちでいたい。
私には私の経験や時代背景があって、彼女ほどシンプルには生きられなかったりもするけど、家族は私のテンションが上がるとわかりやすく影響を受けることも、改めて感じ取りながら。

初めて娘をベビーカーに乗せた日、友人に助けてもらったっけ。
抱いたり、スリングに入れたり試しだめし命に慣れていく時期を経て、初めて娘をシートに乗せて歩いたあの道の凸凹な段差や石ころにドキドキしながら、カタカタ揺れるシートのその振動が娘にはどんな風に伝わってるんだろう。私は、心細さの中、友人のサポートを頼りにベビーカーを押した。

そして、私が娘とベビーカーや歩く人々や通り行く車を眺める景色と、娘がシートの上から眺める景色は別なんだと実感した時、彼女が私たちを通し、また私たちから離れて世界を知っていくように、私たちは彼女たちの目を通して新たな世界の捉え方を知るのだと、ありがたく思うのでした。子どもは、天からの授かりものだから。

すでに彼女はコミュニティーの中でも活躍していて、メッセンジャーの役目を果たしていたりすることを本人は無自覚だったりする。だけど子どもにも、ちゃんと一人前の意思や考えがある。
私が幼いころは、無自覚でした。だけど「わかってもらえない苦しみ」を彼女に味わわせたくはない。
というよりも、すべてはわかり得ない上で、わかりたい、わかちたい思いがある。
子育ては自分育て。だから日々、夫婦で話し合います。

家族って、面白い。
家族って、不思議。