祝福のアカシア

子どもたちのイベントは、青空のもと大盛況! 売り切れ続出だったとか。
大人たちも、普段とは違う環境でおしゃべりも弾み、さらにお互いを知る機会にもなって。

あれから13年が経つ前日だったせいか、それとも新月を意識していたせいか、史上特大の気づきもあって、こうして今までで最もとか言いながら更新し続けるのが、目覚めや自覚の上で生きるということか(単に神経質でスルースキルを身につけきれないでいるだけか、と自分ツッコミ)。


ちなみに「覚」は「学んではっきり見える」という意味。

それから数日して夜、珍しい時間に突然ピンポーンと玄関が鳴った。
開けると昨年、近所に引っ越してきたご家族の奥さんが「これもしよかったら、実家からもらって飾りきれないので」と、目の前に大きなミモザの花束。

「ありがとうございます!!うれしい〜!私、ミモザ大好きなんです!!」
予想外のことに驚いて大歓喜する私に、膝元からハイ、という感じで差し出してくれた男の子の、初めて見るまんまるな笑顔。
まだ上手に話せなくたって、言葉以上に伝わるものってたくさんあるね。
あの一瞬の光景は、私が死ぬ時の走馬灯で出てきてほしいくらい大切な宝物にしたいと思った。

私にとって、もともとミモザは昔読んだ小説の一編の、その描写からイメージするだけのものだった。
お花屋さんで見かけても目の前で立ち止まることのないまま、実物を手にしたのは昨年、私の誕生日に友人がプレゼントしてくれた日が初めてのこと。
それ以来、私にとってミモザは特別なものになっていたようで、最近になって街角で束を抱えるおじさんを見かけたり、庭先に植えられているのを見つけたりしてまるで思い出させられているようだった、そんな矢先の出来事。
誕生日プレゼントに思いがけず渡された日は驚きや喜びで、膝に鳥肌が立つような不思議な感覚があったけれど、ようやくその理由がわかった気がする。

「黄色は、ママのラッキーカラーだよ」
と、いつか娘が言っていたのを思い出し、花瓶に挿した房なりに広がるミモザを眺めながら、無意識のうちに口ずさんだNOKKOの「人魚」の歌。
なぜか泣きそうになる。

 アカシアの雨に 打たれて泣いてた
 春風のなかで 月がのぼるまで

歌詞をちゃんと思い出したくて調べてみたら、ミモザはアカシアとのことで、本当にびっくりする。

日本という風土にあるその民族性には、原始的に自然や万物に祈り、感謝する精神が宿されている。
歌や詩や絵にのせた想いは誰かや何かを通して伝わっていくし、深いところですべては繋がっているのだから、運命に翻弄されるような体験だって、血肉に糧になればそれはかけがえのない生きた宝になる。
今なら、そう言える。

枯れない希望をまとって生きていく。
だって命は、私たちは、かつての「願い」によってできているから。
母と一つの「緒」に繋がれたもの同士を結びあい、ちがう経験をもつ同士、みんなで、これからも明るく楽しい「今」を創っていく。


あっぱれ。