過去世での娘との縁

夕食後、ふいに夫が
「この子は昔、棟梁だったのかもな。前世かな。
今こうやって(夫婦で話しているのを)笑いながら見てるみたいに、
俺たち若い衆が仲間同士で楽しく話してるのを見て、笑ってる姿が急に見えた。」
と言った。

夫がプラーナ?や、オーラが見えたりする人だ
というのは知っていたけど、
「前世とかも見えるんだっけ?」
今日は仕事もひと区切りついて、
「意識がいつもよりクリアだからかな?」
と言っていた。

確かに、目の前のことに一生懸命な時は、意識が広がらない。
何かに囚われていて、モヤがかかったような。

目の前のことに一生懸命というのは、
例えば恋愛でも仕事でも、そのできごとや人に
自分の過去や未消化を投影しながら
覚醒や気づきを待っているような時。

もしくは、自分を抑えることに必死な時。

その関係や、その事象を通して、愛を学ぶための
悲しみ、苦しみ、苛立ちetc…だったりするのだから、
俯瞰して見ると、それすらも愛だなぁ、とか思うんだけど。

ちょうど今朝、娘の言動に感動して泣いてしまったのだけど、
そういう事が起こる時は、
今がとても充足している証なんだろうと思う。

感動して泣けてくるようなことが一定の間ないと、
私の場合、日常が当たり前になって、心が固まってる気がして気持ちよくない。
というか、その気持ちよさを実感できるようなった。

ちゃんと泣ける。
ちゃんと怒れる。
腹の底から笑える。
そうすると、安堵感、満足感が
ひたひたと、まるで音をたてるように心に広がって行く。

些細なもの(と自分が思うもの)でも
自分の喜怒哀楽をないがしろにしてしまうと
空虚な気持ち、言ってみれば孤独感が深くなる。

命は、自分だけが感じられる自分自身の感情を、
大事にして欲しいんだろうな、と思う。

感じないことは悪いことではないし、
実際、そういう時間を長く過ごしてきた懐かしみのようなものが
ふと湧くこともあるけど、
自分の喜怒哀楽の先にある爽快感を、思い出せてるほうが楽だ。

魂について、思い出したことなど、色々と語り合うのは
わが家の日常風景だけれど、
この話をしている時もやっぱり、娘は
聞きながら、ただ微笑んでいた。

夫の話を人ごとのように聞いていたけど、
改めて思うと、そうかも知れないなぁ、と思う。

私と娘は、どんな縁だろう?と思っていたから、
少しだけそこに触れた気がして嬉しかった。