親との分離・親との統合

先日、那須の板室温泉に行ってきました。

その温泉には「アタラクシア」という名の黄土浴があって、
20代の頃、その「アタラクシア(魂の平静)」という言葉に
強く惹かれた記憶と、それからの感覚を蘇らせるような、
どこか懐かしさを感じる旅でした。

アタラクシアを渇望していた頃の私と、
アタラクシアをわりと日常のものにしている今の私。

私は、私の記憶でできている。

記憶といえば、
昔、女性の身体というのは、
胎児のころに、すでに卵子が体内で作られていて、
つまり、お母さんのお腹の中にいる時から
すでに女の子は自分の卵子を持っていて(700万個とか!)、
生まれてから徐々にその数は減少し、
思春期以降、その卵子は排卵したり、受精卵となったりしていく。
という話を聞いた。

ちょうど、自分はアダルトチルドレンなんだ、
と認識した時期に聞いた話だったから、色々と衝撃だった。

その衝撃とともに、うろ覚えの、だけど時々思い出すその話を、
たまたま今日ハッキリ認識する上記の解説を目にして、納得がいった。

精神的・心理的に
家族療法やジェノグラム(家系図に基づいて感情を遡る)で
三世代以前からの流れの中に自己認識することと、
物理的に
卵子を母親の胎内から備えて生まれる、
つまり母体の中で、自分と、その子孫の命の源が生み出されている、
世代連鎖や継承というもの、
それが、当然ながら切っては切り離せない仕組みで、
自己実現系でよく目にする
「自分を生きるために親と分離すること」
「親を恨み切ること」
が、実感しつつも完全にしっくり来なかったのは、
一生どころか永遠に、自分の由来に「親」は真実として
切り離せない存在だからだ
ということを思った。

ごくごく当たり前といえば当たり前の話だけど。

「親」という存在は、
生きる上で手かせ足かせにもなりうるし、
自分を守り導く神ともなりうるんだ、ということ。
自分次第。
一生涯。

その親と「人格」や「価値観」を分離し
「命」として統合していく過程の中、
ようやく、親の生きる目的(使命)と私の目的は違うんだな、
ということを受け入れはじめた今日この頃。

そして先日、誕生日に義父母から届いた
大きな大きな花束を前に、
「あなたも将来、こんな幸せな嫁ぎ先に出会いなさいね」
と、娘に言いたくなった気持ち。

そんな気持ちになれたことが、とても嬉しかった。

言うか言わないかはどうあれ、
娘に対して願う思いは、私の私への願いだったと思い出すと、
親からもらえなかったと思う欠乏感は
親以上に私を理解する人に出会わせたし、
その出会いに見守られながら命を生み出し
その中で支えられて生きる、
そんな人生を満喫できるよう、
この世界に生み出してくれた親に対して
やっぱり、ありがとう、と思う。

そんな桜満開の季節。

謳歌しよう。命を。