鬱、というターニングポイント

これを書くには少しばかり勇気がいること。

ずっとずっと前になるけれど、知人の男性が、私に「このままじゃ鬱になっちまうよ!!」
というような言葉をはいて、その時私は内心「じゃあ、なっちゃえばいいよ」と思ったこと。

を、そんな風に思ったなんて言えないよなぁ…と思っていたのです。
だって私は、実際に鬱になってわかったことがたくさんあるから。

鬱にならないように、
うつ病を治すために、
という発想はきっとたくさんあって、対処や治療がなされるのだと思う。

そもそも私自身、そしてカウンセリングの現場で、憂鬱な気持ち、晴れない心に触れるのは、とても日常的なこと。

・・・でもさ。

人には、爽快な気分と、憂鬱な気分、どっちも普通にあるよね?

うつ病にならないことよりも、うつ病になって社会生活が送れなくなる前に、自分の憂鬱な気分、憂鬱な気持ちを「否定しない」という心もちが結果的に、うつ病にのみこまれて自分を見失う恐怖からほどけていくんだと思うのです。

わからないから恐い。
感じたくないから避けたい。
だけど、もしかするとその憂鬱には、意味があるかも知れない。
そう思えたら、そしてその意味を理解して納得できたら、本当の自分の思いに従って、自分らしい生き方を作っていけばいい。

というのも、最近、
「うつ病なのかもしれない」
「うつ病を患っているらしい」
という話を二、三聞く機会があって、わたし自身はその当人とお会いしてはいないのだけど。

当人が一番辛いわけだけれど、身近にいる人も、相当きつい。

だけど私自身、外出できない、人に会えない、毎日死ぬ場所をどこにするか考えていた、というような鬱状態になった経験を経てみて思うのは、

鬱になるほど「〜なければならない」と思い込んでた自分自身との決別・再生の時期だった

ということ。

そう思うと、鬱は悪者でも、いらないものでもなく、人生を転換させる機会だった、ということ。

私の場合は、社会人として、大人として、女性(男性)としてetc…
○○しなければならない。のに、できない。
もっと頑張らなきゃ、もっとちゃんとしなきゃ。

と葛藤を抱えながら、容易にやっている人を見ては自分と比較して、劣等感、無力感、罪悪感…というスパイラルに陥っていった。

あの頃、

「○○しなければならない。」と思いながら

「のに、できない(自分はダメだ)」じゃなく
「けど、やれないから違うことをする」
「けど、自分には向いていないからあきらめる」
という発想ができてたら、そんな視点が持てていたら、そもそも苦しむことはなかったでしょう。

できないから苦しい。
できないから行き詰まり、葛藤する以外ない。

でも待って。

本当に、本当に、そうしなければならないの?
何のために?
そして、誰のために?

と言いつつ、私自身「ゆーうつ。。。」な気分がこわくなくなったのは、だいぶ時間がたってからのこと。
自分の心との向き合い方みたいなのが、わかって来てから。

全てを否定しないとか、自分に強制しないとか。
だけど今でも、憂鬱だなぁと思うことがなくなったりはしてない。

憂鬱だけど、憂鬱なのは、◯◯だったから。
というそれぞれの、その時々の、自分だけの答えがある。

だから、うつ病を恐れるな、と言いたいのです。
鬱や、うつ病を悪者にしないでほしい。

うつ病に、あるいは憂鬱な気分になってまで自分にわかって欲しい、自分に気づいて欲しい本当の思い。

それが、命の振動で、命の温度。
自分が生まれてきた意味で、自分が生まれてきた証なんだよ。