「人はクリエイティブなメディア」
これは私の中にあった感覚が、ようやく言語になった喜びとともにその記憶を残そうと、noteのプロフィールに書いていた言葉。
誰もが自分のどまん中で生きることができるなら、私はそうありたく、そうありあいたい。
メディアに関わる業界にいた私の、プライドのようなものが消えない。
SNSが現れてから、マスコミがマスゴミと言われるようになって、納得と反感の両方を、勝手に抱えたりしてた。
私たちは、誰もが事象を目撃する目だ。
誰かがケンカしている。
誰かが愛しんでいる。
何かが組み立てられていく。
何かが朽ち果てていく。
そのありさまを眺めて、私たちは想起・喚起されるものを感じ、放ったり、味わったりしている。
そしてその時点で、何かを切り取り、何かを思い出し、新たな創造のためのきっかけを作り出してもいる。
mediaというのは、ラテン語の「medium」の複数形だということを昨日知った。
ミディアムは中間、介在、媒介の意味だが、スピリチュアル界隈では、チャネラーのことを言ったりする。
それを思い出した時、ああ、と「人はクリエイティブなメディア」だと言葉にした時の自分にかえった。
私たちは、魂の入れものとして、人と人、天と地などありとあらゆるものの中間で、媒介として、感じ眺めながら存在している。
兵庫県の齋藤知事が府知事に返り咲いた時、私は涙が溢れてきた。
あの時の人々の熱には、私もつられてテレビやSNSを見た。
時代のひとつの象徴として、その感性や佇まいを宿らせている役目を目撃できることに喜びを感じる。
「いる」ということこそが、「する」ことの裏付けであって、「する」ことが結果なのであれば、「いる」ことは原因になる。
私たちはどこまでいっても、目の前に広がる世界の原因と結果を担っている。
人が人のぬくもりを保って生き切れる世の中である必要がある。
安心の中で、のびのびと自身をくつろがせ、解き放つ喜びを共鳴させていく、光響の日々を、ずっとずっと創造している。