華麗なる暇つぶし

おととい、夫の実家から戻ってきました。
彼の生まれた場所で、こんなに長く過ごすのは初めてのこと。

これまでは「孫の顔を見せに行く、義父母の住む場所」だったところを「夫の生まれ育った場所」として改めて捉え直す機会にもなりました。

前回一時帰宅する時、「(孫である娘を)お預かりします」と言ったら「はい、お願いします」なんて、以前にも「(孫を)育ててくれてありがとう」なんて言う母の言葉を不思議に思ったけど、そうか、私は家系の子孫を守る人。
母は病院も、介護する人もすべての人員を自身で選んでいました。だけど痛みが出れば当然気持ちも弱り、母が言った「長生きするかも」という希望が薄まってしまうようで、もどかしくて。
義父の父が亡くなった時も、義母の姉妹が亡くなった時も、医師の余命宣告通りだった事を知り、義父母にとって愛する家族を失った体験はおそらく色濃く、医師の言葉を反芻しはじめる母。夫は、命は「本人の意志次第なんだよ」と静かに言いました。

母の気持ちを大切にしながら、私たちにできること。
様々な葛藤の中、お母さんを看取った経験のある友人に相談したり、医療に従事する仲間からの「ベストよりベターを」というアドバイスを心して。ヘルパーさんや事務員さん、関わる様々な人たちと一緒に、泣いたり励ましたり、来る日も来る日も、母と家族の想いがふれあう寝室に代わるがわる行き来しました。
出る感情は出す、が信条の私はみんなが帰った後も泣いたり、夫と喧嘩したり、話し合ったりしながら精一杯。
母は最後まで介護ベッドで寝ることを拒み、これまで通り義父と同じベッドにふたり並んで寝ました。

実家の母とは、電話で祖母(母にとっての姑)を介護していた時の話をしました。
ほとんど寝ずに看病していたある早朝、夢うつつの中に母がキリストの姿を見たこと。祖母に話すと、事もなげに「成就のかげよ」と言い、そう言った事さえすぐに忘れてしまってたという話。誰もクリスチャンじゃないのに。
10代の頃にそれを聞いた瞬間、とっさに「そういう(精神状態の)時、また現れるかもね」と口をついて出た記憶は自分の思考や理解を超えてたな、と我ながら印象的で、ごくたまに思い出しては母と共有する話題。そこには「想いを共有(共感)した」という体験や、血のつながりを越える絆や縁の深さを思うできごと。義母ともまた、二人だけのやり取りをしました。

看護師は、土日は来ません。
もはや私たちは眠るというより体を横たえているだけでした。
深夜でも明け方でも物音に反応し、父が呼びにくるんじゃないかと身体中が緊張していたと今は思い出せます。

娘の前歯が抜けて夜が明けた日、夫の機転により、それまでお世話になった関係者の方々に連絡すると、午前中のうちに大勢お見舞いに訪れ、それぞれに涙し、沈痛な面持ちで部屋を後にされました。それぞれが、それぞれの思い出を持って。平日にも関わらず、ふと思い立って来たという親族たちや、仕事後に直行したという家族ぐるみでお付き合いのあった方々、ほとんどすべての人たちが母と面会を終え、見送ってまもなく、母の呼吸が止まりました。

私は思わず「お母さん!息して!」と呼びかけ、首を支えて気道を確保すると、母は最後の最期、ひと息「はぁっ」と大きく息を吐きました。
どこまでも素直に応じてくれる母だったから、それを思う義父が他者の介入をなるべく止めたくなる気持ちもわかって。病気になってからの母はさらに純度が増したみたいに、柔らかくこだわりなど何もなく、すべてを受け入れているようでした。

母は、命は、水のように流れる愛の塊だな、と思いました。

母の仕事への心残りは夫に託され、喪主である少し耳の遠くなった義父をサポートしながら、通夜や葬儀の取り計らいも一手に引き受けて。継母の亡きあと、初めて義兄もそろった家の景色は、それまでとは違いました。
住職は、元々夫の通った学校で先生をしていた方でした。家族に丁寧に訊ねてくださって、結婚当初「れいこ、っていう名前に憧れてたの」と母が言ったことを思い出し「麗しい、の麗」が好きだったこと、グリーンが好きで「翠」の字が似合うことなどを伝え、美しい音の響きをもった母の戒名が決まり、義父の想いとたくさんの、たくさんの方々の力添えによって、母らしいこれまでに見たことのない葬儀が執り行われました。

娘は「おばあちゃま、くるくる回って天に行ったね。」と言いました。読経の時、自然と瞑想状態になって感じていた私の感覚もまた、思い残すことなく空を舞う母の様子をイメージしていました。
義父も夫も、心の準備や想いを伝えるための時間があってよかった、と。

私たちが結婚した2014年秋、母は生後4ヶ月からお世話をしていたという夫の弟のような存在の青年と、一緒に南スーダンに行くといって、私たちは成田空港に見送りに行きました。
私は当初その経緯をよく分かっていませんでしたが、途上国に水と医療を届けるNGO団体の代表者に会いに行くためだったといいます。母は自身の介護事業を天職だと言っていました。

そんな母は生前「人生はね、華麗なる暇つぶしなのよ」と夫に話していたと言います。
そんなふうに言えてしまう境地を、私は味わえるだろうか。

葬儀のあと数日して、家の目の前で初めて蛍を見たと夫が言いました。
翌日、義父も初めて家の前で蛍を見て、母ちゃんが来たのかも知れない、と二人で話したと言います。
後悔が無いなんて事は無いんだな。思い出せば思い出すほど、伝えたいことや聞きたかったことが出てくる。
母の存在と不在を思いながら、生きていきます。心の赴きと共に。

お母さん。
出会ってくれて、受け入れてくれて、思ってくれて、教えてくれて、愛してくれて、本当にありがとう。
ありがとうございました。