たとえば、別れること。
たとえば、失うこと。
物理的なものだけじゃなく、誰かへの思いが変わったり、何かに対するこだわりが無くなったり、そういう、心理的なものも含めて私たちは、ありとあらゆる変化の中を生きている。
虫たちが羽化する過程があるように、その変化や転機は、私たちを進化させ、新たなるステージへと導いているのかも知れない。
スピリチュアルな人たちの中で、よく「手放す」という言葉が使われることに私はなんだか違和感があって、その違和感が何なのか、だいぶ時間が経ってからわかってきた。
「手放す」という事は、一見能動的ではあるけれど、手放せないものを無理矢理手放そうとすることは不自然だし、はなから「手放すことで得る何か」を目的にしている様子が、違和感だった。
そもそも、手放す前には「不要」だと心から認めるステップがある。
拮抗する感情の、要と不要の間に葛藤があり、その葛藤が悩みや問題を引き起こす。
不要なのは相手じゃなく、相手に向けている自分自身の思い。
ただその不要な思いさえ、その時の自分には、かけがえのない大切な思い。
大切に握りしめた思いのひとつひとつを紐解いて行くことで、ようやくその塊になったものの中の一番シンプルで、一番純粋な部分が見えたら、そのことにもう、こだわらなくてもいい、と思える。
手離れて行くのなら行く、ここに在り続けるのなら、在る。
そのどちらでもいい。
その時まで、自然に任せ、時に委ねていてもいいんじゃないかしら。
そうしていつしか私たちは、自分に必要なだけの転機と進化を迎えるのだから。



