6月の義母の誕生日に一周忌を終え、夏至が過ぎ。
つづく娘の誕生日の七夕に、次に備えて花がらを摘み終えていた母の日のカーネーションが突然、ふたつ咲いた。
ご縁が連なるようにして、周りも終わりや始まりを迎えながら、こうした折節を目印に、共に命を紡ぎ育んで行く。
これまでも、これからも。
2023年2月のインスタより
ーーー非言語の多次元的なコミュニケーションは、双方で展開されてく。
法要のとき「お義母さんは新しい家族の形を作ろうとしたのだと思う」と、義実家と親しい方が言った。
夫の継母であった義母と、夫の実母、そして私の母と、私は4人とも同じ「母」であり人としてつながり合って、私たちは今年結婚10周年を迎えた。
法要の時のその一言で、初めて、というか改めてそう言語として現実を再認識すると、「新しい家族の形」を創造してきた同志の絆のようなものは、きっと大いなる働きによるご縁の賜物なのだと思った。
娘が産まれて初めて帰省したとき「やっぱり血が繋がっていると特別に感じるわね」と目を細めていたけど「お義母さんとは血、繋がってないよね(笑)」と夫と苦笑。
そんな義母のナチュラルな愛に、見守られていた。
昨年、それまでここにいた義母に、肉体を持ってもう何かを聞いたり伝えたりできなくなる、そのことを突きつけられる瞬間まで、私の目には梅雨の景色の美しさが映っていた。
喪失の悲しみや寂しさだけなんかではない、言葉にならない沈黙も、慰め合うありがたみも、この期に及んで出会う初めての方とのご縁への感動も、すべて義母という人の存在によって生み出され、感受する私と、何もかもがそこにあった。
ただ、そんな私たちを見守る義母の目を、失った。
365日目、また同じように紫陽花は咲き、月は満ちた。
決して同じではない色形で咲く花々や草木と、それを眺め続ける定点カメラのような目で、この星特有の力に運ばれたり引っ張られたり囚われたりしながら、現し、見い出すことを楽しんでいるようだ。
今年の母の日は、初めて夫の産みの母に花束を贈った。
母もまた、私や娘の誕生日には必ず「おめでとう」を贈ってくれる。
折節の歓喜を味わいながら、私は夏休み前最後のお弁当を作った。