2020
04.16

ずっと未知でした

コラム

コロナ騒動の後は、新しい世界、未知の世界が始まるんだ、というようなことを言っている人がいる。

確かに、そうなんだろうな。と思っていた。
でも急に、いやずっと未知じゃね?と思った。

そもそも、震災後の世界は未知だった。
結婚、出産も私にとっては未知だったし、就職する時も未知だったしこわかった。

ちなみに、スピリチュアル関係の書籍を読んで「まったく意味がわからない」と思っていた時期、久々に読んでみたら「びっくりするほど意味わかる」と思った時期、その境目に聞いた「アセンション」とか「パラダイムシフト」という言葉も私なりに「こういうことだろうな」と理解してるつもりだけど、とにかく自分にとって人生って、ずっと未知だよね。

そして今、多くの人が外出を控えさせられていて、経済が止まるとか止めてはいけないとか、止まった方がいいとか言っている人もいる。

私は、経済は止まらないし、止まったら困ると思っている。
すべてのものが親戚や友人知人たちとの繋がりで生活がまかなえるほど揃ってはいない現実で、私だけが生きているのならまだしも「遊び=仕事」の子どもの遊び場が、これからに描く夢を育む場所が、私ではない誰かの職場であることは、意外に多い。
スポーツ選手にあこがれたり、お花屋さんにあこがれたり、するみたいに。
見知らぬ人の力を享受することが経済を作っているなら、お金だって必要なものだと思っている。


ただ、過剰な生産や、過剰な経済成長、経済優位な世界や世界観にはもう、ほとほと飽きている。そんなのもう、ずっとずーっと前からそう。
スペインで導入されるとか、されないとかいうベーシックインカムには、少し興味があるけれど、生活が守られた時、私たちは創造的に生きられるだろうか。

そんな中、昨年から今年にかけて、私の中でヒットしたワードがいくつか。

過剰な生産から自然な創造。

風の音、風に吹かれる葉っぱの擦れる音、鳥の泣き声、自然は思っているより賑やかで、忙しない。

子どもは私たち大人よりよっぽど自然に近いと思っていて、景色の中にある自然もまた、多くのことを教えてくれる。

彼らの教えは、基本的に「感じさせる」ものだ。
そのメッセージを受け取りながら、日々を営む者として、自分を生きる覚悟をした世界が広がるなら、楽しみ。

命を喜び、命を遊ぼう。