がんばりすぎるお母さん

久しぶりにぎっくり腰!

重いものを持ってギクッとした、とかでもなく、
娘とお買い物に行こう〜と着替えをしていたら
おや?腰がまっすぐにならないような。

予兆はあったのです。

寝不足ぎみになって、疲れがたまってくると
腰がダル重くなるのはもう産後の私の定番で、「休め」のサインだと思ってた。
ただ、そのサインを知らず知らずのうちに、
つい無視してしまうのは自分としては、家族を思うあまりのこと。

でもだからって結果的に、
ストレスがたまってイライラしたり、動けなくなったりするくらいなら、
はじめから無理しなきゃいいのに。
「わかってるけど」「心がけてはいるものの」やめられない理由があるみたい。

今回は、数日前に夫に
「このまま行くと、体が動けなくなったりするパターン」と宣言(?)していて、
「見事な現実化だね」と話したくらい。

痛みが出たその夜は、遅くなると言ってた夫も早々に帰ってきてくれて、
翌日、以前ネットで調べていた整形外科に行ってみよう、と思い立ち。

電話で状況を伝えると、
「今日は混んでいて、明日は腰痛専門の医師が来るため、もしそれでよければ」
とのことで一旦了解して。

医院「他に先生に伝えたいことなどは、ありますか?」
私 「こうして痛みになって出てる原因は、自分の中にあると思っていて、
HPで先生もおっしゃっているように
(ボディ・マインド・スピリット)全体を診ていただけたら、と。
それで何か、自分の中の原因に気づけたらな、と思っています」
医院「ああ、それでしたらやっぱり今日お越しいただいた方が良いかもしれません」
私 「わかりました。では今日お伺いします」

そもそも電話の対応が柔らかく、とても好印象だった。
院内はかなり混んでいて、たくさん並べられた本は、どれも読んでみたくなる。

「気が上のほうで滞ってるよね。
例えば私なら男で、父親で、院長で…っていうような、
肉体があることでついてる役目が優先されて本来の“わたし”が抑えられちゃってるというかね。
…例えだけど、わかるかな?」

「はい、わかります!」

診察室に入って一言、二言交わしただけでもう、ドンピシャすぎる。
きっとそうだと思っていたから、
改めて自分以外の人にそう指摘されて実感となった。
ベッドにうつ伏せになって、と言われて横になったら思わず涙が出てきて、「やった〜!!」とか思うって変な人だよね私は。知ってる。

先生は片手をかるく腰に当てながら
もういっぽうの手で、エネルギーを流してるだけ。

いっそもっと泣き切りたいくらいだったけど、
淡々と診断は進み、レントゲンをとって、
リハビリとして別室で手足のマッサージと、舌診。

その間に突然、亡くなった母方の叔父を思い出したり、
20年ほど前に、ここから数十メートル先の病院に入院してた事や娘を産んだあと、
数週間いてくれた母を駅まで見送りに行った事など、
印象的ないろいろが浮かんできて、泣き足りなかった分の涙が出てきた。
目の前のことを追いかけるのに夢中で、薄れていってしまう様々なできごと。

涙やため息になるたびに、少しずつ腰は楽になってくから、おもしろい。

たまって固まって痛みになっていたものを、
ゆるめて赦して出していく。
しっかりと感じることの大切さを、再認識。
泣けてくる意味が自分の中でストン、ストン、と落ちていく。

変化の中で、色々な選択と決断がせまられていた最近。

それでなくとも、子どもを授かってからというもの
自然と護る本能が緊張になってて、だいぶ気が張ってたんだな。

内側の色々はわかりやすく体に現れてくれて、
もちろん、その明るみになった状態も変化して、
いずれおさまっては行くのだけど。
できる限り実感として、自分の思考や行動になる傾向・習慣を捉えておきたい。

そう思うのでした。
舌診の医師には、子供が大きくなると忘れちゃうから、
今日のことはなにかに書き残しておくといいよ、いつか思い出になるから、って。

本当、きっとそうだ。

帰宅して夫が改めて氣を入れてくれたら、さらにすっごく楽になった。

娘は「ママ、自分のこと大事にできなくて腰が痛くなっちゃったんだ〜」
と言ったら「じゃあ、これからはだいじにしてね。おうえんしてる!」って。

泣ける本当に。
この優しさに甘えていいって、
このあたたかさに委ねていいって、
私、心から思えてなかったんだ。